『人間性の回復を求めて』
神は人をご自身のかたちとして創造された

小平聖書キリスト教会牧師 遠藤 勝信
印 刷


 まずはじめに、「信仰の歩み」とは、歴史と自然を通して現され、終わりのときに御子を通して示され、聖霊の導きのもと聖書の中に啓示された愛と真実の神を、三位一体なる神のみわざによって救われた者が、唯一このお方だけが握っておられるご主権を尊び、神中心に生きることを喜びとすること。人間を中心としてではなく、神を中心として生きることを求めて歩むこと。それこそ、私たちに期待されている「信仰の歩み」であることを告白したいと願います。

人とは何者なのか
 私たちは「人間」を、どのように定義するでしょう。人とは何者なのでしょう。

 日本では、進化論の価値観が学校教育を通して子供たちのうちに擦り込まれ、「人間は猿、ネズミのような姿をしていた祖先生物、さらに遡れば、単細胞の微生物から、偶然にも進化を遂げた生き物」という理解が一般的です。だから必死になって地面を掘り、進化の過程を立証する証拠を求め、あるいは宇宙にロケットを飛ばして、地球の近くにある惑星や流星に探査機を送り込んで、微生物の基になるような物質がないかを捜します。一方では「美しき日本人」の原型を、古事記や日本書紀という日本古来(と言われる)の神話の世界に求めています。

 人とは何者なのでしょう。考えてみれば、これは何と重大な問いでしょう。そして多くの人は、それに対する明確な答えを得ないまま、またこの問いと真剣に向き合うことなしに、生きてきたのではないでしょうか。人とは何者かがわからないため、如何に生きるべきかもわかりません。人間らしく生きなければという願いはあっても、その「人間らしさ」がわからないのです。

 「ありのままに」というディズニー映画の主題歌が、昨年大ヒットしました。この「ありのままに」という言葉には不思議な魅力があります。これまで自分をがんじがらめに縛り付けてきた何かから解放される、そんな気持ちにもならせてくれます。しかしそれは一瞬のことで、すぐに私たちは「ありのままには生きられない」現実に気づくのです。というよりも、「ありのままである」ことがいったい何であるかが分かっていないのですから、そうなれるわけがありません。せいぜい、それは「それまで自分が我慢してきたこと。じっとたえてきたこと。周りと歩調を合わせるために懸命に努力してきたことなどを、放棄し投げ出す」ぐらいの意味なのではないでしょうか。しかし、「ありのままに」とは、そんな刹那的な選択でもなければ、無責任な決断を意味するのでもありません。「人が人であること」「人がもっとも人らしく生きるとはどのような生き方であるのか」がわかって、はじめて実践できることなのではないでしょうか。


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