『人間性の回復を求めて』 神は人をご自身のかたちとして創造された

小平聖書キリスト教会牧師 遠藤勝信

「罪」とは、人間性の毀損
 私たちがこの人間論、「人とは、神のかたちとして創造された存在である」という理解を思索の出発点とするならば、「罪」とは、「神のかたちとしての人間性を失うということ」を意味します。「罪」とは神との関係性を失うことであり、神のかたちとして造られた意味と目的を見失うことです。そして、神を直接に代表する者として行動し、生きる本来の生き方を放棄することを意味します。結果として、「人間らしさ」すなわち本来の人間性を毀損したことを意味しているのです。

 そこからいったい、何がはじまったのでしょう。それまで神を中心とし、神のご主権を尊んで生きてきた人間が、神中心をやめ、人間を中心に、また自分を中心として生きはじめたのです。この罪の現実はあまりにも根深く、信仰を持って歩ませていただいているクリスチャンの歩みにも、絶えず人間性の欠落と神中心性の喪失から来る悪しき傾向が影を落とすのです。それはとても厄介なことで、私たちが絶えず目を覚まし、みことばの光に照らされ、自らの心の内側を照らし続けていただかないと、つい古い生き方へと逆戻りしてしまいます。

真の人間性の回復のために
 聖霊なる神は、真の人間性の回復のため、それは同時に神中心性を私たちのうちに呼び起こすために、働いていてくださいます。弱く不完全な私たちに寄り添い、日々私たちを新しく造りかえてくださるのです。それを神学用語では、「聖化」とか「栄化」と表現してきました。このみわざは、私たちが神の国に迎え入れられ、主と顔と顔とを合わせてお会いするその日まで続けられます。主イエスを信じたときに与えられる救いは確かで、揺るぎ無きものです。けれども、それはゴールではなく、出発であって、真の人間性と真の神中心性の回復のわざは、その時点ではまだ始まったばかりなのです。

 ダグラス・ムーという聖書学者が、ローマ人への手紙の注解書の中で、ローマ書のある節に対してかなり緻密な釈義的解説を終えた上で、突然、学問のテーブルから降り、学者たちとの対話を止めて、読者に語りかけるところがあります。


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